今までいろんな人に会い話し学び影響されてきた。そんな人の数も数え切れないが、他にも亡き偉人達についても出来るだけいろんな分野に渡り見てきてもきた。そんな資料館、記念館は数十は入っているだろう。見てきた人はすでに数百人にはなるのではないかと思う。しかし、大概は「凄い人がいるもんだ。」とその人生、人柄に魅せられはするが、しかし感動まではいかない。ただ、そんな中にでも大きく感化され、また感動させられ、さらには尊敬にいたる人もいた。今でも忘れられない衝撃を受けた人物といえば”福沢諭吉”であった。その記念館を見るまではどんな人物かもほとんど知らず、入館も気の進まぬものであったが、しかし、いろんな人を見てみたいというそんな気持ちから入館した、。しかし、それが、自分にとって衝撃的な出会いであり、そんな感動を今も忘れない。そして、今日、また思いのしない偉人との出会いが待っていた。
そんな今朝の起床は4時半。観光駐車場のトイレ脇で寝た昨夜、今朝はそのトイレ掃除のおばちゃんによって起こされた。さすがはおばちゃん、朝は早く、こんなとことを心配はしていたのだが、それにしても早い、ただ、そんなおばちゃんと朝ののんびりした団欒を楽しみ、起こされはしたもののそんな悪い朝でもなかった。さて、そんな今朝もやっぱりHP、そして自炊から始まる。さらには久しぶりの快晴の空が迎えてくれたこともあり、気分も良くし久しぶりの洗濯も同時に行ない、ながらセッセと朝の準備を済ませて今日はちょっと早い8時には自転車をすでに漕ぎ始めていた。ただ、日記がまだ途中というやり残しはあったが、なんとなく集中できずに仕方なくの出発でもあった。
こうして遠野の町を去り、向かい風が厳しい中を宮守村、東和町と抜けて行き花巻の町へと入り、また内陸は4号線沿いへと戻った。数日前にこのすぐ北の町、盛岡にいたはずなのに、ここに来るまでだいぶ遠回りをしてしまったものだと我ながら変な旅の道程に呆れながらも、またそんな気ままな旅が嬉しくもあった。ちなみに三陸へと出た理由は早池峰山を登るためであり、また釜石を観光するためでもあった。そしてまたこの花巻へと戻ってきたのも理由があり、ここでは宮沢賢治、そして新渡戸稲造を見てまわることであった。しかし共にそれほど興味ある人というわけでもない。いや、興味あるどころか共にその人に関してほとんど知らなく無知であった。だが、知名な人だけに見ておきたく、またその人を見れば何か得られるかもしれない、そんな期待の元、まず入ったのが”宮沢賢治記念館”であった。
彼の作品で私が知っている本と言えば”注文の多い料理店”くらいのものであり、他は全くしらなく、またその人物象すらも知らない。どんな人なのか、またどんな思いでたくさんの作品を残し、そして何を伝えたかったのか、それがこの記念館へと期待したことなのだが、しかし、館内はそれに反し、すべての展示が抽象的であるように私には感じ、なかなかその人物象が出てこない。かといって、彼の作品を詳しく説明している訳でもなく、さらに実態が湧いてこない。その生涯こそ説明されてはいたが、しかし作品へ掛ける思いが分からず、さらにはどうして書こうと思ったのかもよくわらない。結局、私にとっては期待外れの記念館となってしまった。いや、これほど私にとってつまらなかった記念館も珍しい程で、いつもなら興味なくとも、それでも魅入ってしまうのに、しかし今回に限り例外で、なんと途中であまりの退屈さに睡魔が襲い、館内のベンチでウトウトとうたた寝してしまうありさまであり、眠い目を擦りながら退館するといった具合であった。しかし、そんな館内でも驚いたことがひとつ、その見学者の多さである。それだけ人々を魅了している作品を残しているという表れであるだろう。だが、そこにその魅力があるのか結局謎のままであった。ちなみにこの宮沢賢治記念館以外にも宮沢賢治に関する童話村、さらにはイーハトーブ館なども併設され一大観光地となり、さすがこれだけに規模だけにその案内板も高々と至る所に掲げられていたのだが、しかし、その反面、この後向う新渡戸記念館は見落としそうな小さな看板に案内されたひっそりと町外れに佇む記念館であった。
この記念館もさほど期待はしていない。しかし、それでも、”新渡戸稲造”に関してはお札にもなるほどの人物だけにどんな人なのか気になるところである。果たしてどのような人物なのだろうか、それを見るために入ったのだが、しかし最初は館内は拍子抜けする展示物。こう書いてしまっては記念館に対して申し訳ないのだが、しかし私が実際に見たい人物と館内の人物とか違っていたのだ。同じ新渡戸ではあるが、しかし主に紹介していたのは稲造の祖父にあたる傳のことであり、またそれに関わる新渡戸一族の紹介であった。確かにその資料館を見れば見るほど彼もまた凄い人であり、魅かれはしたが、しかし目的が違う。そう思いながらも見ていると、別コーナーに新渡戸展があり、他と比べれば展示スペースは少ないもののその生涯と情熱について詳しく述べられていた。そしてその「願わくばわれ太平洋の橋とならん」との信念のもと、世界平和のために尽力した彼、稲造に魅入り、さらには感動し、そして感動のあまりに涙するほどであった。しかしそれほど魅せられた理由、そして自分がなにか未だ分からない。福沢諭吉の時もそうであった。共に思想家であり、また教育家でもあり、さらには出世欲に駆られることなく国の為に世界の為に尽くしてきた人であることは確かで、そんなところに惚れたのかもしれないが、しかし、ただそれだけではなく、他に何かあるのは分かってはいあたが、しかしそれが何であるかは分からない。しかし、この出会いが私の人生になんだかの影響を与える出会いで会ったことは確かだろうと今から確信しての退館であった。ちなみに館内では多数の稲造に関する本が回覧でき、それらにも魅入っていたために時間は思いの他、掛かってしまったが、しかしこの人に関しては苦はなく、面白くて仕方がない。また、日本を世界に現すために書いた「武士道」という本にも惹かれ、その本を簡単にまとめた冊子を購入した。どこに惹かれたといえばこれが日本の宗教であり道徳であろうということであった。異国では道徳を学ぶに宗教を基礎にし得るのだが、しかし宗教を基礎として教えることのない日本、どこでその道徳を学んでいるのか、新渡戸はそれを疑問に思いそして結果を出したのが武士道であった。江戸期の封建制度の中に養われその基礎は神道であり儒教であり仏教で、それらから伝え成型されていったのがこの武士道であり、また日本の道徳の基礎にもなっている。しかし、今の子の世の中、その精神、道徳は薄れ、人の道から外れてきてしまっているのが目立つ。そのうちの一人が自分であり、それを見直し、また学んでみたいと強く思わされた見学でもあった。
こうして相反する見学となった2人の人物を見て、花巻の町を後にした。もちろん「来てよかった!」という感無量の気持ちでいっぱいであり、また、何かを見つけることができた花巻の地であった。この後は国道4号線沿いを、朝の天気から一変し、また広がり始めた重い雲を見上げながら南下し、次の町、北上市へと入った。すでに16時近かったが、この先の予定を考えると出来れば今日中にこの町の観光もしておきたく、そんな歴史を見るために入ったところが”みちのく民族村”というところであった。南部藩と伊達藩の藩境に作られたこと施設には、たくさんの当時の民家、屋敷が移築保存されていた。さらには博物館も併設され、分かりやすくこの北上川水運最大の河港とし、また奥州街道の宿場町として繁栄した北上の歴史・文化についても展示され、ここでも時間いっぱいを費やし、その膨大な資料に浸っていた。
退館時間の17時、すでに辺りは薄暗くなり始めていた。まだ寝床は決まっていなく焦りもしてしまったが、しかしその心配はすぐに解消された。目の前の展勝地と呼ばれる桜100選にも選ばれている河川敷公園、そこに寝れそうなところを見つけ、そしてこの後、寝床を確保したことから安心し向った先は銭湯であった。ボート部の威勢がこだまする北上川、昔は交通の要となる川であり、どれだけの川舟が行き交っていたのだろうか、そんな川景色を想像しながらは、ボート部の威勢のよい声を聞き橋を越え、地元の方に教えて頂いた銭湯・松乃湯へと入浴。なんの変哲もない昔ながらの銭湯であるが、しかし、その雰囲気が私は好きで、下手な観光入浴施設よりも味があり落ち着きもする。こうして旅の垢を落とし、また、身体を温めて、また川を越えて先ほど目星をつけていた展勝地公園のとあるトイレの脇にまたテントを設営し、今日の就寝となったのだが、しかし難点が・・・ 電源が確保できるだろうと思い設営したところなのだが、電源がきていないではないか、やや目立つ場所だけに設営を迷ったところ押し切ってのせっかくの設営であったが、これでは意味がない。しかし、いまさら場所を移動をするのも面倒で、そのままHPの更新作業に入るがバッテリー切れ・・・ そのまま自分の力失うように、自炊も結局面倒になり諦め、空腹を堪えながら21時半の就寝であった。
★今日のお食事♪
・朝食 : ごはん・ワンタンスープ・魚の缶詰
・昼食 : 吉野家牛丼・パン×3
・夕食 :
なし