長崎観光2日目、知らない歴史、文化に触れ、そして長崎の温かい人たちにも触れ、どんどんそんな町に引かれ好きになっていった。そして”平和への願い”そんな強い長崎の思いが、至る所で肌で感じることができ、自分も第三者としてでなく、小さなことからでも平和な社会を、国を、そして世界を作るためにも実行して行きたいと思う。全ては小さな第一歩からだ!
今朝は7時に起床し今日もやっぱり昨夜やり残した日記の更新からスタート。これを遣り終えなければ次に一日がスタートできない。辛い作業ではあるが、でもそれ以上に遣り甲斐のある作業でもある。清水さんは仕事の為に8時前には出社、固い握手を交わし、お礼の言葉を言うことしかできないが、でも精一杯の気持ちを込めた。ありがとうございました。お世話になった清水さんを見送り、そして朝食をご馳走になってからも引き続きHP更新作業。こうして必死で作業を進めていったが、でも終えたのは9時過ぎになってしまった。それから身支度を整えていよいよ10時頃出発!しようとしたところ突然の雨が、しばし待たされて、結局今日は遅い10時半近くになってしまっての出発だった。
今日まず向かった先は”三菱造船所史料館”だった。いろんな歴史を見てみたかったために、またとくにこの三菱会社については会社を興した岩崎弥太郎のことも小説や高知の観光等で見てきただけにこの造船所にはとくに興味があった。史料館内では今まで製造したきた船の写真が説明付きでズラリと並んでいた。戦時には武蔵をはじめたくさんの軍艦を製造、そして終戦後は自衛艦(最新鋭イージス艦)もここで作られていたことには驚いた。最新の技術を駆使して作られているそうだが、でも使われることがないことを祈りたい。ちなみにこの史料館は造船所構内にあり、守衛所を越えていく。会社の様子、働いている姿をみながらのんんびりと構内を走り、そして史料館へと向かうことになるのでが、こうして会社を見るのも楽しかった。
このあとコンビニでパンを買って軽く昼食をとってから、浦上天主堂へと向かった。最後に坂を登っていくのだが、それを登りきったところには大きいとは思ってはいたが、その予想は遥かに超える巨大な天主堂がそびえ建ち思わず声をあげてしまうほどであった。美しい並んだステンドグラス輝く窓など、美しく、それでいて落ち着いた雰囲気の堂内を静かに見学。だが、その天主堂からやや下りたところには原爆で破壊されたときの無残な天主堂の残骸が今も保存されていた。そこには痛ましい姿がいつまでも残っていた。こんな天主堂の残骸、この長崎の地の幾つかの公園などにいくつか残され展示保存っされていた。それだけ、長崎で親しまれてきた建物だったのだろうが、一発の平気で全てが失われてしまったことを今にも伝え生きていた。
今日は原爆に関する資料館が続く。このあと私は恥ずかしながらその方を知らなかったのだが、永井隆博士の資料館へと入った。知らない人だっただけに最初は入館するつもりはなく、ただパンフレットには戦争の伝える本を多数出版した方というふうに書かれていたため、それほど気にはとめていなかった。だが、その建物前に書かれた看板をみて、その偉大さにこころ引かれ、そしてどんな生涯をおくり何を伝えていったのか知りたくなり、迷わず中へと入館した。館内は他の資料館と比べれば小さなスペースではあるが、その中の内容は非常に濃いものであった。そして平和への願い、そして人類愛に満ちた永井博士の思いが胸を締め付けるほど伝わってきた。
ちなみにこの方は、レントゲン技師で戦前、結核予防に力を注いだ。だが、資材不足からレントゲン直接透視という危険な作業へとかわり、そして放射線被害から白血病と診断されてしまった。だが、この先も臆することなく病気と闘い、そして医者として研究に没頭した。そして原爆に被爆し、重症を追いながらも救援活動を続け、寝たきりになってからも戦争を悲惨さを伝えようとたくさんの本を出版された。その中の一つが「この子を残して」という、この近くの多くの方が亡くなった里山小学校児童らが書いた戦争体験談をまとめたもので、その印税からその小学校には平和を願う碑が建てられていた。今ももちろん碑は残っていて、たくさんの千羽鶴にかこまれながら在校生による温かい保護をうけて管理されていた。長崎ではいつまでも過去の物ではなく生き続けていた。
このあと、この里山小学校の校舎裏にある防空壕跡を見学し、そして先生方からメールでお誘いしていただいていた城山小学校へとこのあと向かった。その小学校は爆心地から見上げることのできる丘の上に建てられていた。だが、その姿には痛々しいものが今も残っていた。それが、被爆校舎が今も残っているのだ。児童からの発案で平成11年から改装し中を一般公開され、そんな児童達の戦争への思いが、館内からもうかがえ、平和への思いが児童達に浸透していること、そして多くの学校などから寄せられたたくさんの千羽鶴からも、全国へと、そして世界へと伝えていっているこの校舎、そして児童達、ただただ胸打たれ、締め付けられる思いがし、そして平和への願いと、今、自分に出来ること、それはなにであるか、深く考えさせられた。
そしてこのあと、お誘いいただいた坂本先生と、そして校長先生も交えていろいろこの小学校について聞かせてくれた。実際にこの地で話をこうして聞くと、ただ、本で読んだりするだけよりもほんと感じ方が違う。過去のものではないことを実感し、そして身近に生き続けているものであることを感じ、これらを他の歴史と同じように風化させてはならないことを感じた。最後に先生方みんなと嘉代子桜も前で記念撮影。ありがとうございました。ちなみにこの桜にも悲しい話があり、この内容については児童達が気持ち込めて作ってくれた案内板を写真に撮ってきたので、それを読んで欲しい。
このあと坂本先生に構内の至る所に残った戦争の傷跡を案内していただいた。被爆しても今も行き続ける木々たちも、力強いとはいけ、今もその痛々しい傷跡を残し、そしてたくさんの人に今も伝えていた。そんな案内中、元気な城山小学校バスケ部に出会い、そしてみんなで記念撮影♪ありがとうございました♪
このあと平和公園である方と待ち合わせしていた。それは今朝連絡した長崎新聞の記者・里崎さんで快く取材してくれた。そんな平和公園に向かう途中に、偶然、日本一周?!ライダーの「ひろえぬ」さんに出会った。そしてなにより驚いたのが、自分のことを知っていたことで、このあと、ゆっくりお話したかったのだが、時間に追われていたこともあり、悔しいがまたHPで!!会話を最後に交わし、握手の元お別れした。そして16時、巨大な平和記念像の前で取材開始、取材はいつも通り順調に終え、そのあとはいろいろこの長崎の土地について聞かせてもらった。さすが記者だけに地元の文化、歴史について詳しく話してくれた。視点が普通と違うだけに勉強になる話ばかりで、こうした仕事上の出会いではあるが、地元の方との貴重な出会いでもある。
取材を終えた後、昨日案内していただいた清水さんから連絡が入り、そしてまた今日もお会いすることが出来た。そして17時と遅い時間にはなってしまったが、今からまわれるところをいろいろ案内してくれた。今月いっぱいで閉館してしまう素朴な銭湯に連れて行ってくれたり、そのあと、爆心地公園を見学、そこにはまるで時間が止まっているかのように原爆が破裂した時間を刻んだ像が建っていた。そこにはいつまでもその悲劇の時間が残されていた。爆心地では大きな碑が建ち、ここにもたくさんの千羽鶴に囲まれていた。また、この周りには慰霊碑などが至る所に建ち、戦争の傷跡をいつまでも残していた。この後、喫茶店でコーヒーを頂きながらいろいろ話を聞かせていただいたり、そしてまたいろいろ見てまわってくれ、18時半ごろ、お世話になっている浦津さん宅へと帰路についた。連日、ほんとうにありがとうございました!!
夜はお孫さんの”ゆうき”ちゃんと楽しく夕食♪照れ屋さんで最初はなかなか話してくれなかったが、でも、時期に一緒にワイワイ♪そんな和やかな楽しい夜を過ごし、そして造船所で働く浦津さんご主人帰宅後は、造船に関しての話をいろいろ聞かせて頂いた。どれもこれも自分の知らない新鮮な話ばかりで、尽きることなく遅くまでお付き合いしていただいた。ありがとうございました。そのあとは恒例のHP更新作業。だが、そのうち睡魔に襲われて0時ごろ今日も日記を途中にしてしまい就寝してしまった。