パラパラと雨音止まぬ天候の中、重い気持ちで5時半ごろ目覚めた。あまり行動する気にはなれない日であるが、それでもここに何時までもいるわけにもいかず、出発準備を始める。日記はまるまる残してしまっているので、ちょっと大変だが、でも昨日買った朝食弁当があるので、自炊しなくてよい分は楽であり、全て終えて出発は9時ちょっと前となった。
雨は今のところ小降りでそれほど苦もなく、まず向ったのはここから北へと海沿いに5kmほど走ったところにある、舞鶴引揚記念館である。ここは戦後、主に旧ソ連、中国などの大陸からの引揚者を13年間に66万人以上受け入れ、また1万6千人あまりの遺骨も含んでいたという。日本各地で10箇所、引揚港に決められたうちの一つだそうだが、ここ、旧ソ連方面の引揚が一番難航し、大陸の人たちはシベリアの各地で強制労働されていたという。その過酷な労働に多くの人が亡くなったそうだ。そんな集団収容の様子、抑留生活などの当時の辛く悲しい現状を主に展示されていた。今まで、戦時中の資料館は幾つも入ってきたが、戦後の引揚の現実については初めてで、戦争は終わっても戦後はすぐにはやってこないことを実感し、その傷跡がいかに深いかということを感じた。
引揚記念館を後にし、また来た道を東舞鶴まで戻り、そして次に見学したのが「赤レンガ博物館」。この間はかなりの大雨に降られてしまい、たった5kmではあったが、水害がバックに出てくるほどの雨を浴びてしまった。そのため、資料館にはいるのも大変。ビッショリのこの身体で入るわけにも行かず、でも、脱ぐのは大変で、ちょっと軒下で乾かしてから入館。 でも、実際のところはあまり乾いてなく変わっていないのだが・・・ ごめんなさい(汗)
建物はもちろん旧倉庫を改築したもので、さすが「赤レンガ博物館」と言った感じで、真っ赤に赤レンガ作りであり、そこには不思議と温かみがあった。中のほうは、たかがレンガ資料館だろうとあまり気体はしていなかったのだが、紀元前から始まる歴史の古さ、そして、たくさんの世界のレンガ建築物なども写真で紹介され、その大規模さに驚き、また資料も膨大で意外に楽しめるところであった。ちなみにこの舞鶴市には昨日の写真でも紹介したとおり、たくさんのレンガ造りの建物が残されている。実際の数は膨大でとても写真の収めて紹介できないほどで、それらほとんどは、明治34年に置かれた旧海軍舞鶴鎮守府の建物で主に武器倉庫であったそうだ。それらが今、戦後利用され、資料館や造船所倉庫として今も現役で頑張っている。それら赤レンガの景観がほんと美しく、また冬の雪景色での赤レンガ群も見てみたい、そう思いながら、今は自転車道となっている旧海軍鉄道のレンガトンネルを見学しながら、こんどは海軍基地へと向った。
週末の土日は特別なことがない限り、自衛官が見学できる嬉しいイベントを実施していた。さっそく見学と行きたかったが、さすが警備は強化期間中ということもあり厳重で荷物チェックから始まった。ただ、さすがに背負ったバックの中身だけの確認ですみ、自転車の膨大な荷物は確認することはなかった。たくさんの自衛官が警備に携わっていたが、ほとんどみな笑顔で迎えてくれ気持ちよく艦上を見学でき、そんな和んだ雰囲気には、こんな重々しいところでも人間らしさがある、唯一の暖かい場であった。ただ、話してみると、実際に覇気がなくボソボソと受け答え、そんな方も実際にいて、自衛隊もいろんな人がいるもんだとも感じ、そんなところに親しみがもてた。ただこの重層な艦船にはいくら見学しても親しみ持てるわけはない。逆に、見れば見るほどこんな兵器を持たなければ維持していけない国が嫌になるほどである。使われないことはもちろん、こんな兵器自体がなくなる、そんな平和な世界を一歩一歩作っていけたらなと、そう強く思う、貴重な自衛隊見学であった。
ちなみにこれら自分の写っている写真は、巨大な自衛艦に負けないように胸を張って撮ってもらった写真で、同じような気持ちで共に撮った為か、まったく同じようなポーズの写真となってしまった(汗)
この後は、すぐ近くにある海軍資料館へと見学したかったのだが、厳戒警備中とあって、今は一般公開されていないということだった。残念であり、またそんな体制をとらなければいけない世界情勢をこんなところでも実感する出来事のひとつだった。
雨は相変わらず本格的に降り続いていた。カッパ着っぱなしの為に買い物にすら気軽によることができず、ごめんなさいで、コンビニに侵入し、昼食弁当を購入し、腹を満たして、このあと福知山市までの長い道のりを漕ぎ始めた。この舞鶴へ来た道をまた15kmほど引き返すことになるのだが、この道中は必死で昨日なくしたネックレスの石「夜光貝」を探しながらの走行だった。また舞鶴公園にも立ち寄り、ここが最初に自転車を降り立ちでもあり、また転んだ地でもあるため、重点的に探すがやっぱり見つからず、他も必死で探し、ゆっくり漕ぎ進むがやっぱり見つかる分けなく、方を落として、10数キロの道のりを戻って、福知山へと南下していった。
ただ、そんな重い気持ちを洗ってくれたのは、のどかな風景だった。こうした落ち着く風景がやはり心を洗ってくれ、そんなのんびりした中、雨は相変わらず降り続くものの気持ちよく追い風にも吹かれながら漕ぎ進んでいった。休憩はほとんどすることなく約2時間半の道のりを漕ぎ進んで福知山市内へと入った。こうしてちょっと急いだのには理由があった。それは海軍資料館観光がなかった為に思ったよりも早く舞鶴を後にすることができたため、その空いた時間を福知山城の観光へと使おうと思い、せめて16時までには城へと急いだのだった。そんな16時丁度、福知山城へ到着!さっそく17時までの時間いっぱいに使って城内を見学した。
ここは明智光秀が起こした城下町として有名で、そんな明智の資料を期待していたのだが、残念ながら期待の資料は少なく、ここでは江戸期の朽木家のことについて特に重点的に置かれた資料が多かった。確かに明智家が治めたのはわずか2年程度で仕方がない資料かもしれなく、逆に朽木家は約200年、幕末まで治めただけに、その資料が多いのは普通のことかもしれない。ただ、知名度としては明智家の方が大きい分、ちょっと残念さが残った。
17時。このあと寝床探しなのだが、嬉しいことに今日は宿が決まっていた♪この福知山市のお寺「円覚寺」の住職”成田さん”がこのHPを通して誘ってくれたのだ。さっそく電話でお寺の場所を探してお伺いした。直前でのお願いにも関わらず温かく向けえてくれて、そしてお寺へと案内してくれた。なんと成田さんは、日本一周達成チャリダーで、さらにはアメリカ、タイへと長期にわたり旅行した経験を持つ。そんな旅行の中で仏教と出会い没頭していったという、ちょっと他には少ないお坊さんで、そんな話はとても為になることばかりで、また刺激の連続であった。そんな成田さんに誘われ、夕食をご馳走になり、さらには福知山温泉へと連れて行ってくれた。これがまたいい温泉で、まさに極楽気分を味わい旅の疲れを癒した。
お寺へと戻ってからは、いろんな歴史の本を見せてくれた。歴史好きな為にどれも興味そそる本ばかりで、あったが、さすがに今は旅の途中でじっくりと読むことはできない。このあとは、ここで就寝と行きたかったが、家庭の事情で、なんと今夜は他を紹介してくれるという。数冊本を貸していただき、向った先はなんとビジネスホテル!悪いと思い断ったが、でも、「せっかくだからゆっくりしてください!」っと薦めてくれ、なんとこの旅始まって以来のホテル泊まりであった。でも、もっともっとゆっくり成田さんの聞きたい分、残念ではあたったが、続きは明日の朝の楽しみにして、22時頃、ホテルへと入った。もちろんテレビ・エアコン付きの、さらにはテーブルまでついて、lこのあと快適にHPの更新作業へと入った。大好きなテレビ番組・ウルルンを久しぶりに見ながら作業を快適に進めていったのだが、時間のほう無常にもはあっという間に過ぎて行き、日をまわった午前1時ごろ、さすがに就寝した。